第2回 北野映画にみる追加と省略
北野武という映画監督は、現在日本で最も過大評価されつつ、かつ最も過小評価されている監督の一人であろう。「世界のキタノ」という称号が定着した感のある現在だが、その作品の本質的な魅力、あるいは欠点について、冷静に議論されていることが少ないように感じる。
北野映画の最大の特徴は、徹底した「追加と省略」にある。
例えば、北野ブルーと称される独特の色彩感覚。これは決して「青色」を好んで使っているわけではない。むしろ、画面から不要な色を「省略」し、残った色が結果として「青」を基調とした寒色系として際立っているのだ。この「色の省略」が、観客に静謐さと同時に、いつ爆発するかわからない緊張感を与える。
また、北野映画における「死」は極めて唐突である。ハリウッド映画のように、死に至るまでの劇的な伏線や、感動的な今際の際の言葉などは一切「省略」される。人は歩いている途中に突然撃たれ、食事中に突然死ぬ。この「ドラマチックな死の省略」こそが、現実の死が持つ無機質さと、その裏側にある生の輝きを逆説的に描き出している。
一方で、「追加」の部分。北野監督は、物語の本筋とは直接関係のない「遊び」のシーンを執拗に挿入する。砂浜での相撲、着ぐるみでのダンス、延々と続くしりとり。これらは一見無駄に見えるが、この「無意味な時間の追加」が、作品全体に独特の間(ま)と、ある種の虚無感、あるいは子供のような無邪気さを同居させている。
「ソナチネ」や「HANA-BI」で見せた、この圧倒的な「追加と省略」のバランスこそが、北野武を世界的なマエストロたらしめている理由だ。しかし、近作においては、そのバランスが崩れ、「追加」が単なる饒舌さに、「省略」が単なる説明不足になっていないか。その点については、後の作品で改めて考えてみたい。
Originally published by Tomohide Nakagawa