第3回 「市民ケーン」にみるウェルズの未熟
「市民ケーン」(1941)は、あらゆる「映画ベスト」の上位に君臨する、映画史上の金字塔である。当時わずか25歳だったオーソン・ウェルズが、監督・脚本・主演・製作を兼任し、パン・フォーカス(画面の奥までピントを合わせる手法)や独創的なライティング、非線形な物語構成など、後の映画術に多大な影響を与えたことは疑いようのない事実だ。
しかし、あえて言いたい。この作品には、ウェルズの「未熟さ」が同居している。
ウェルズがこの作品で見せた圧倒的なカメラ・ワークや音響効果の数々は、彼が持っていた類まれなる「演劇的・ラジオ的センス」の応用であり、同時に若き天才が持ち合わせた「見せびらかしたいという欲望」の産物でもある。
画面の隅々にまで情報を詰め込み、複雑な構図で観客を圧倒するその手法は、確かに「技術」としては素晴らしい。しかし、あまりにも「技術」が前面に出すぎており、物語の情感や、ケーンという男の深淵な孤独を、真に映画的な沈黙によって描くことには失敗しているのではないか。
ケーンは新聞王として権力の頂点に登り詰めながら、死の瞬間に「ローズバッド(薔薇のつぼみ)」という謎の言葉を残す。その言葉の正体を巡って物語は進むが、最後にあかされる結論は、あまりにも「文学的」であり、「パズル的」でもある。
映画史上、ウェルズほど若くして映画の「言語」を拡張した人間はいない。しかし、その言語を用いて、「心」を描く術(すべ)を、この時の彼はまだ持ち合わせていなかったように思う。後に彼が「オーソン・ウェルズのフォルスタッフ」などで見せる、より枯れた、そしてより深い人間洞察に満ちた映画世界に比べれば、「市民ケーン」は最高に贅沢で、そして最高に未熟な「デビュー作」なのである。
Originally published by Tomohide Nakagawa